展覧会Exhibition

春原直人:巌 - 同時に生きる
巌Ⅳ / 2017 / 1620 x 1300 mm / 和紙、岩絵具、青墨

  • 春原直人:巌 - 同時に生きる

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春原直人:巌 - 同時に生きる

2019年3月8日(金) – 3月24日(日)

この度アートフロントギャラリーでは、春原直人の個展を開催致します。
日程 2019年3月8日(金) – 3月24日(日)
営業時間 11:00 - 19:00 (月、火休)
レセプション 2019年3月8日(金) 18:00-20:00
作家在廊日 3月22日午前中 / 23日、24日時間未定
春原(すのはら)直人は1996年長野生まれ、現在東北芸術工科大学大学院の日本画領域で学んでいる新進気鋭の美術家です。総合的な美術に憧れた春原は、悩んだ末に日本画を選んだといいますが、学部を卒業するときには日本画コースの最優秀賞を受け、その後石本正日本画大賞展奨励賞、クマ財団奨学生に選ばれるなど次々とその才能を開花させています。

山のある風景の中で育った幼少期、山形に移り住んでさらにフィールドワークとしての登山に目覚めた春原は、山をモチーフとした作品を多く制作しています。峻厳にそびえる山、あるいは丸みを帯びた山々などその大きな「気配そのもの」を出現させたいといいます。山に登り「感覚」を大切にしながらスケッチを行い、それを基にアトリエで本画を仕上げていきますが、墨、青墨、岩絵具、水干絵具などを駆使して、山の生成するプロセス全体を一枚の画面上に表そうと試みることもあり、一見モノトーンにみえる作品の中にも多視点で捉えられたレイヤーが見え隠れしています。

作家にとって2018年は地元山形での活動を通じてさらに作品の幅を広げる年となりました。肘折温泉を舞台にした
≪ひじおりの灯≫では、厳しい自然と共に生きる村の人々の力を山々に重ね合わせ、灯篭の中の光が山々を静かに映し出す作品を発表。また山形ビエンナーレでは幅6メートルの屏風とともに「登る視点」と「観られる視点」を掛け合わせた映像作品を発表し好評を博しました。これらのグループ展は人なつこい作家が作品を通じて様々な出会いを経験し、作風に磨きをかける契機になっているようです。

今回の個展ではパノラマ風の大型作品に加え、部屋に飾れるサイズの作品も発表します。山に限らず、描く対象と自分との関係を模索し続ける春原の作風が、新たなフォーマットの中にどのように展開されるか期待されます。年を追うごとに変わっていく若いエネルギーの発露をぜひご覧いただければ幸いです。

蒼連 / 和紙、岩絵具、青墨 / 2000 x 6000 x 60mm / 2018


春原直人展に寄せて
後藤桜子(水戸芸術館現代美術センター アシスタントキュレーター)

 時間の多寡にかかわらず、身を置いた環境によって体得した感覚や動きは日常の行為に現れる。例えば山を歩くときの足の運びや意識された息遣い、小さなものへの眼差し。それは名状しがたい悦びとなって、再びその瞬間が訪れないかと後々体がうずく。 作品に向き合うときもまた、そのような瞬間がある。

 ところどころに雪を抱く厳つい山肌を描いた《蒼連》(2018)に取り組んだ際、春原の関心は行為に伴う運動や感覚の積み重ねによって更新される知覚の変化にあったという。山に入り、自らの歩速や視覚に限らない感覚によってその相貌を獲得すること。その経験を画面の前ではタッチやストロークという新たな行為として発揮することが目指されている。《厳IV》(2017)や《連》(2018)においては、図像としての山は描かれず、大振りな筆使いや岩絵具の垂れた跡、ザラザラとしたマチエールなどが風雨にさらされた岩肌の感触を想起させる。

 春原にとって、作品のモチーフとしての山との出会いは、住む場所の変化による発見であった。気候や地形の違いから、馴染みのある対象が新たな視点で捉え直されたことは、環境と人間の情緒的なつながりの観点からも興味深い。故郷の峨々たる山の記憶と新たな土地で出会う山々のたおやかさ。当初移住者として向けた山への眼差しは、その場所で制作を続けるなかで、より複雑な態度として現れてくる。春原が現在拠点をおく山形は山岳信仰の地である。作品のモチーフである飯豊山(《蒼連》2018)や龍山(《龍現》2017)も、古くから崇拝の対象となってきた山々だ。しかし、春原にとっての山は古来の畏怖や嫌悪感を伴う宗教的イメージでも、ターナーやフリードリヒが捉えたような崇高さや壮麗さの象徴でもない。作品において、山は目指すべき垂直的な頂としては表されず、また、近景を引き立たせる彼方の存在としても描かれていない。春原は、自らをその只中にとどめ、 パノラミックな視点でその動きを展開するのである。肉体的かつ精神的な到着点としての頂を仰ぎ見るのではなく、とどまることもたどり着くこともなく彷徨いながら心身と山とが交わっていく。そのように捉えられた山は、身体による知覚を可能にする、行為と絵画平面とを密接に結びつけるための対象なのではないか。

 春原の絵画には、対象を捉えるための周縁的要素がない 。それはモチーフの視覚的、観念的な意味を取り消し、見る者を直接的な画面との対峙へと誘う。移ろいでしまいそうな起伏を 撫でながら、晴れることのない思考の霧の中を揺蕩ううちに聞こえてくるのは万物の営みの中にある自らの息衝きではないだろうか。「満足というより放心。放心というより華やかな空虚。」山を歩いた詩人の言葉がふと頭をよぎる。


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