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原田郁@Taipei Dangdai
GARDEN-WHITECUBE 2020 #002

  • 原田郁@Taipei Dangdai

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原田郁@Taipei Dangdai

ギャラリー

プレビュー:2020年1月16日(木)/ 一般公開:1月17(金)-19(日)

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アートフロントギャラリーは、台湾で開催されるアートフェア台北當代(Taipei Dangdai)にて原田郁の個展を開催いたします。

原田は、コンピューター上に作った仮想空間の風景を描く画家です。
彼女のポップな色彩で構成された想像上の風景の3Dモデリングは常に更新され、家、山、森でなど新しい要素が加わることで新しい風景が次々と生まれています。
しかし彼女の興味は、これらの仮想世界と、彼女がアクリル絵の具で描く実際の絵画との相互関係を示すことです。

今回の展示は、二次元と三次元、両方の作品のインスタレーションで構成されます。どうぞご注目ください。

日程 プレビュー:2020年1月16日(木)/ 一般公開:1月17(金)-19(日)
ブース S04
会場 台北南港展覧館 ホール1(4階)
https://taipeidangdai.com/

"GARDEN-WHITECUBE (G8) #001"



原田郁の作品に寄せて
開閉自由な窓―この世界の私達の立ち位置について

クレリア・チェルニック、パリ国立高等美術学校教授(哲学)、美術批評家

原田郁は日本人アーティスト、1982年に山形で生まれた。彼女のほとんどの作品はコンピューター上に生み出されたバーチャルな構図を絵画化したものだ。その制作プロセスからして、最初から見る人のバーチャル世界と現実世界の関係を揺さぶってくる。原田の目が眩むような倒錯の戯れが創り出すのは、イメージを生成する世界ではなく、逆に世界観を生み出すイメージなのだ。(それは3Dモデルを使った最新の動画をみれば明らかだ。)

ワルター・ベンヤミンが《複製技術時代の芸術》(1935)で述べているように、作品のアウラが次第に失われつつあるのは作品の複製や操作に端を発し、コンピューターの3Dソフトが急激に普及したことによるだろう。原田の作品はコンピューターを使いながらもまさにその流れに逆行している。彼女はビビッドな色のキャンバスによる力強い魅力によって、艶は消され奥行きも排除されたバーチャルな画像の中に「絵画」を、複製ではなく再生されたユニークピースとして蘇らせるからだ。そうすることでイメージを再生し、イメージそのものに聖性・単一性・存在そのものの息吹を吹き込んでいく。

"HOME-PIECE WHITECUBE 2019"


原田の作品が誘うイリュージョンは、匿名性に覆われたコンピューター上の情景と、現実に住むことのできる風景との狭間に見る人を放り出す。実際、イメージの世界と現実世界の双方に同時に身を置くという感覚は、バーチャルと現実との共存関係を生み出し、知覚上の幻影にも似た二次元と三次元の交錯世界を創り出す。さらに、原田の作品に頻繁に登場する窓のモチーフは、バーチャルと現実との境界を明らかにしてくれる。古来「美術の歴史」とは、窓としてのタブローの地位がいかに多様な存在論として展開してきたかという議論に尽きるといっても過言ではないだろう。例えばレオン・バティスタ・アルベルティは《絵画論》(1435)の中でタブローの本質を開け放たれた窓に譬えている。窓が絵画の誕生に果たした役割のみならず、窓のイメージは内と外、表層と奥性、客観性と主観性、対象への参加と対象から距離を保つこと、遠い近い、国とその風景など様々なコンセプトを顕在化してみせる。また窓には額や透明なガラスが付随しており、境界であり開口部、文房具の絵葉書でもあれば空気の呼吸でもある。もっといえば対象へのアクセスや視点を象徴するものとして、この世界と同様な世界が他にも存在するかもしれない可能性、一つの世界が入れ子構造になっている世界や別の空間と見慣れた日常世界との関係性を問い直すきっかけを与えてくれる。アルベルティの言う世界に向かって開かれた窓は現実的な物語を紡ぐが、装飾的なマティスの窓、マルセル・デュシャンの《なりたての未亡人》の即物的でユーモアのある窓に至るまで、窓は常に美術の歴史と共にあったのだ。

"Pink Mountain"


今日、窓はコンピューター上のウィンドウのメタファーとしてより一層注目されている。 魅惑的で遠く、非現実世界へと通じるアクセスをバーチャル化する機能を備えている。そして原田は抽象芸術に力点を置くようなこの路線に乗って作品を制作している。ただしそのバランスの位置は常に変化し、一方で外気を自由に取り込むため開けっ放しにした窓とその結果として対象とその存在感との関係性を結ばせる窓と、他方抽象形態の遊びによって世界を凍結させるような控えめな距離感、遠くから見ると単に色のモザイクが画面を静止させるかのような違和感の間でバランスを保っている。換言すれば、原田の平面作品は、この世界における我々の立ち位置がいかに曖昧なものであるかを語っている。即ち、遠いものと近いもの、畏怖の気持ちと対象に関わっていく積極的な気持ちとの間で揺れ動いている。彼女の作品を見ると視点はドローンのように上空を飛行し、バーチャルで新しいテクノロジーを解体していく。そうすることで、手掛かりもなく、ざらついた表面もない、滑らかな画面上に万華鏡のように視線が滑り、まるで自分自身の眼が熟視していてそこに存在し、その場面に目が責任をもつことを忘れてしまう。原田の絵画を広く横断する光と影の戯れは、窓が開き様々な外気や大気の流れを促すことを証明しているのだ。

"OLD WOOD - GARDEN PIECE #003"


窓にまつわる原田の装置は、我々とものとの距離がどれほど変化しやすいかを教えてくれる。距離というのは現実から抽象へ、住みうる場所から遠い彼方へ、手すさびから本格的な事業まで、その距離感は常に流動的である。原田の窓はまるでカメラレンズの絞りのように常に開いたり閉じたりすることで、我々の遠近、原田の世界から脱したりその中に入ったり、線を見ることで自分が属する現実世界を観たり、世界の中或いはイメージの中に存在することが可能だと示す。開いていても閉まっていても、窓とはその中に生きる者あるいは傍観者いずれにとっても、この世界に責任をもつという概念に与えられた名詞ではないだろうか。

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