展覧会Exhibition
安野太郎 : アンリアライズド・コンポジション「イコン2020-2025」
2020年1月10日(金)– 2月2日(日)
この度アートフロントギャラリーでは、安野太郎の個展を開催致します。
日程 | 2020年1月10日(金)– 2月2日(日) |
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営業時間 | 11:00 - 19:00 (月、火休) |
レセプション | 1月10日(金)18:00 - 20:00 |
パフォーマンス | 2月2日(日)16:00 - 17:00 |
作家在廊日 | 1月22日(水)、25日(土)、26日(日)、29日(水)、30日(木)、2月1日(土)時間未定 |
安野太郎は1979年東京生まれ。日本人の父親とブラジル人の母親との間に生まれたハーフ。2002年東京音楽大学作曲科卒業 、2004年情報科学芸術学院大学[IAMAS]修了。作曲活動を続ける中、東京藝術大学音楽環境創造科での助手を経て、現在は日本大学芸術学部と東京造形大学にて非常勤講師を務める。
あらゆるメディア、テクノロジー、手段、方法で、音楽そのものをあり方から問い直し続ける作曲家として活躍。代表作に、「音楽映画」シリーズ、「サーチエンジン」、「ゾンビ音楽」シリーズ等。2枚のCD「DUET OF THE LIVINGDEAD」「QUARTET OF THE LIVINGDEAD」をpboxxレーベルよりリリース。近年は作曲家の枠を超えて現代音楽とインスタレーションが融合した展示型音楽作品を発表し始め、音楽、美術の両面において受賞をしている。昨年は服部浩之氏のキュレーションによる第58回ベネチアビエンナーレ日本館代表作家のひとりに選出され、国際的な舞台でその才能が輝き始めた。今まさに注目の作家である。
安野が今回提案するのは、「2020年オリンピックのファンファーレ」案と、「2025年関西・大阪万博の為のプロジェクト」案。安野はアンビルド建築等の作品のあり方から着想を得て、実現されないであろう仮想のファンファーレ作曲をアンリアライズド・コンポジションとして考案。近年の音楽の作曲のみにとらわれない活動と同様に、ファンファーレを作曲だけでなく、ファンファーレ発生装置の原案にまでに発展させオープニング演出の一部分を仮想し、鑑賞者の脳内に疑似的に作り上げます。
展示は主に発生装置のもととなるプロトタイプおよび、式典での装置ドローイング、コスチュームなどが披露され、展示室内には実際に作曲したファンファーレが響きわたります。2020年オリンピックを目前に作曲される実際の祭典では使用されることのない安野のファンファーレに是非ご期待下さい。
もう一方のプロジェクト案は2025年関西・大阪万博に向けたもので、1970年大阪万博で建設された岡本太郎の太陽の塔を当時と異なる形で再利用する案を提案。
新進気鋭の作家が織りなす未知の提案は無謀である一方、様々な立場や政治に左右されない真のクリエーションとしての期待も運んでくるはずだ。
あらゆるメディア、テクノロジー、手段、方法で、音楽そのものをあり方から問い直し続ける作曲家として活躍。代表作に、「音楽映画」シリーズ、「サーチエンジン」、「ゾンビ音楽」シリーズ等。2枚のCD「DUET OF THE LIVINGDEAD」「QUARTET OF THE LIVINGDEAD」をpboxxレーベルよりリリース。近年は作曲家の枠を超えて現代音楽とインスタレーションが融合した展示型音楽作品を発表し始め、音楽、美術の両面において受賞をしている。昨年は服部浩之氏のキュレーションによる第58回ベネチアビエンナーレ日本館代表作家のひとりに選出され、国際的な舞台でその才能が輝き始めた。今まさに注目の作家である。
安野が今回提案するのは、「2020年オリンピックのファンファーレ」案と、「2025年関西・大阪万博の為のプロジェクト」案。安野はアンビルド建築等の作品のあり方から着想を得て、実現されないであろう仮想のファンファーレ作曲をアンリアライズド・コンポジションとして考案。近年の音楽の作曲のみにとらわれない活動と同様に、ファンファーレを作曲だけでなく、ファンファーレ発生装置の原案にまでに発展させオープニング演出の一部分を仮想し、鑑賞者の脳内に疑似的に作り上げます。
展示は主に発生装置のもととなるプロトタイプおよび、式典での装置ドローイング、コスチュームなどが披露され、展示室内には実際に作曲したファンファーレが響きわたります。2020年オリンピックを目前に作曲される実際の祭典では使用されることのない安野のファンファーレに是非ご期待下さい。
もう一方のプロジェクト案は2025年関西・大阪万博に向けたもので、1970年大阪万博で建設された岡本太郎の太陽の塔を当時と異なる形で再利用する案を提案。
新進気鋭の作家が織りなす未知の提案は無謀である一方、様々な立場や政治に左右されない真のクリエーションとしての期待も運んでくるはずだ。