展覧会Exhibition
冨安由真 個展 : The Doom
2021年12月17日(金)―2022年1月23日(日)
この度、アートフロントギャラリーでは、冨安由真展を開催いたします。
現在、金沢21美術館「アペルト」シリーズで個展を開催し、11月19日から始まる「房総里山芸術祭 いちはらアート×ミックス2021+」にも参加、現実と非現実の狭間を体験させるインスタレーションで注目著しい冨安由真(1983-)。
心霊現象や超常現象、夢の世界など、科学によっては説明できないような人間の深層心理や不可視なものに対する知覚を疑似体験させるその空間演出は、鑑賞者を現実と虚構とが交錯する幻想世界へと誘います。
不可解であるがゆえに排除し、忌避してしまいがちな私たちの社会にあって、「よくわからないものの中にこそ、大事なことが潜んでいる」と冨安は信じ、視覚だけでなく、五感や、時に第六感を使いながら、鑑賞者が体感し体験することに価値を置く作品を創造します。
本展は、彼女が幼少期に見た夢を元にした「アペルト15」で発表中の《The Pale Horse 蒼ざめた馬》に連なる展示となります。当ギャラリーの展示空間が、自分と世界への認識を揺さぶる新たな知覚体験の「部屋」へと変容します。
また、インスタレーションにあわせて、冨安の絵画、彫刻作品も展観いたします。
現在、金沢21美術館「アペルト」シリーズで個展を開催し、11月19日から始まる「房総里山芸術祭 いちはらアート×ミックス2021+」にも参加、現実と非現実の狭間を体験させるインスタレーションで注目著しい冨安由真(1983-)。
心霊現象や超常現象、夢の世界など、科学によっては説明できないような人間の深層心理や不可視なものに対する知覚を疑似体験させるその空間演出は、鑑賞者を現実と虚構とが交錯する幻想世界へと誘います。
不可解であるがゆえに排除し、忌避してしまいがちな私たちの社会にあって、「よくわからないものの中にこそ、大事なことが潜んでいる」と冨安は信じ、視覚だけでなく、五感や、時に第六感を使いながら、鑑賞者が体感し体験することに価値を置く作品を創造します。
本展は、彼女が幼少期に見た夢を元にした「アペルト15」で発表中の《The Pale Horse 蒼ざめた馬》に連なる展示となります。当ギャラリーの展示空間が、自分と世界への認識を揺さぶる新たな知覚体験の「部屋」へと変容します。
また、インスタレーションにあわせて、冨安の絵画、彫刻作品も展観いたします。
日程 | 2021年12月17日(金)―2022年1月23日(日) |
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営業時間 | 水~金 12:00-19:00 / 土日 11:00-17:00※短縮営業 / ★1月15日(土)13:00-18:00 |
休廊日 | 月曜、火曜および冬季休業[12 月27 日(月)~1 月4 日(火)]、臨時閉廊:1月21日(金)16:00-17:00 |
作家在廊 | 12月17日(金) |
トークイベント | 2022年1月15日(土曜日) [ゲスト]中野信子 https://artfrontgallery.com/whatsnew/2022/115.html |
椹木野衣(美術評論家)
冨安由真の展示にはじめて接したのは、2018年、第21回岡本太郎現代芸術賞の審査会場でのことだった。この賞は、最終候補に残った作家のグループ展というかたちで、川崎市岡本太郎美術館で実際にグループ展を行い、そのなかから受賞者を選んでいく。そこでひときわ印象的な展示をしていたのが冨安だった。だが、正確にそれを展示、と呼んでよいものかは立ち止まって考える必要がある。冨安の手で美術館のニュートラルな空間のなかにもうひとつ、まったく対照的な洋風の部屋が設えられる。美術館の空間を活用する展示というよりも、いわばそれは現実世界における部屋の入れ子なのだ。
通常、美術館の空間はどのような作品にも対応できるよう、抽象的でなければならない。特定の趣味性などはもってのほかだ。そうしたノイズを取り除き、その行き着いた先がいわゆるホワイトキューブなのだが、冨安の作る部屋は、そのなかにまるで卵が表面に真白い殻を纏うように、内部の内部に佇んでいる。
冨安の作品は、この部屋の内部でなにが起きるかに注目が向けられがちだが、本当に重要なのは、この内部の内部性なのではないかと思う。確かに冨安の作る部屋はなにかが起きる気配に満ちており、実際、意表をつく出来事がふと起きる。だから私たちはそのことに必要以上に目を向けてしまう。無理もない。それは起こり方だけ取り上げれば、世にいう心霊現象とか、超常現象といったものに近いのだ。
けれども私たちは、その時に驚くだけでなく、それを作品の体験として確かに受け止めている。それは、冨安の作る部屋が展示空間という内部における、もうひとつ外被を纏った内部性を保っており、そのことを私たちが潜在的に理解しているからだ。
こうして考えてみたとき、冨安がしばしば自作のモチーフとする夢は、単に冨安の表現のきっかけであるだけでなく、冨安の作品を体験するという経験そのものが、その内部の内部性という点で、夢と同じ構造をもっていることに気づく。
私たちは夢が現実でないことを知っている。しかしそのことに気づくのは、夢を見ている最中では不可能だ。私たちは夢を回想というかたちでしか体験できない。思い出された夢は、いつも現実という内部の、さらに頭の中での想起という内部性によってこの世界に浮上する。展示の内部に潜むその先の内部性という潜在的に備えられたこの夢の形式が、冨安の作る部屋には気配として漂い、構造として宿っているのだ。