展覧会Exhibition
角文平 Proto-Planet
2016. 6. 24 (金) - 7. 17 (日)
この度アートフロントギャラリーでは、 角文平の個展「Proto-Planet」を開催いたします。
日程 | 2016. 6. 24 (金) - 7. 17 (日) |
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営業時間 | 11:00 - 19:00 (月休) |
レセプション | 2016. 6. 24 (金) 18:00 - 20:00 |
角 文平は1978年、福井県生まれ。2002年に武蔵野美術大学を卒業後、同大学の助手を経て東京を中心に活動を続けている。2007年に 第10回岡本太郎現代芸術大賞展特別賞を受賞。盆栽と鉄塔、あるいは椅子と木の芽を組み合わせるなど、日常的に見慣れたものを組み合わせることで新たな意味を見る側に連想させるような彫刻で注目を集める。2013年には瀬戸内国際芸術祭に参加。瀬戸内海に浮かぶ小さな島で空き家を使ったプロジェクトを実施。それまでの自ら加工するものを作品化することから作品周辺の空間を作品の一部として取り込むようになる。
角の作品は日常的に私たちが目にするものを使うことが多い。といってもそれをそのまま使うわけでなく、職人芸的な細やかさで表面や形をも加工することで、よりステレオタイプな形に変えられてゆく。例えばステレオタイプな椅子、ステレオタイプなタンク。そうしたものに対して全く異なる要素を持ったもの、例えば植物の芽などが加工されたものに加えられることからユーモラスな形の作品が生み出される。ものそれ自体でも作品としては魅力的であり、こうして生み出される完成された小作品が多くの人々に支持されてきたのも頷ける。しかし本来は異質なもの同士を掛け合わせることで新しい意味を生み出すことが角という作家の真骨頂であった。例えば椅子と木の素材と木の芽を組み合わせることで、私たちの身の回りでごく当たり前に使われている木という素材に生命体を連想させることなど。連想ゲームのように多少見る側にも考えてもらわなければいけないかもしれない。しかし見る側が想像する余地があることこそ、例えば小説を読む私たちが行間を読んでその余韻を味わうように、アートが面白い理由であることを忘れてはならない。
アートは昨今のテレビドラマや漫画のように瞬時に強要されるようにして面白いと思わされるものでなく、作品がそこにある以前に見る側のアプローチにこそ意義があるのであって、見る側が面白いと思えるかどうかということにかけられているのである。見る側に発見される作品として、角の作品は近年の作家群の中では際立って面白い作家であって、作品を見て考える姿勢さえ身につければ作品から生ずる面白さについて枚挙するには事欠かないのではあるまいか。あるイメージの表層の意味はこうであって、しかもその背後に読み取れるメディアイメージはこうでなどと今更、ロラン・バルトなりの記号学や表象論を持ち出すまでもないであろう。高度情報化社会に住む私達にはもはや記号を記号と思うまでもなく連想ゲームのまっただ中にいるのであるから。角の作品には当然レイヤーとして加算された意味合いが相乗効果をもたらす面白さは単純に1+1=2ではなく、1x1=1であったり2X2=4であったりするということだ。近年の角の作品は派生し加算される意味の振幅がますます大きくなっており、角の作品が含む語彙は急速に拡大し続けている。
2014年に千葉県市原市で開催された「アート×ミックス」に参加。廃校の教室をスタジオに見立てたこのプロジェクトは現在も進行中で、設置された作品が少しずつ発展し、全く新たな要素が加えられたりしながら定期的に公開されている。この作品において、角は市原市の地形を教室の机に刻み進めるというプロジェクトを行っている。そうした恵もあって、道を進んでいてもさほど気づくことは少ないが同市の多くの山のかなりの部分が東京からの日帰りのゴルファーのためのゴルフ場になっていることに気付いた。それ自体はどこにでもある話だが都市に住む限られた人々のために市の面積の多くがそのような施設に化けているということはなかなか気づくこともなく、取り立てて問題というわけではない。しかしよくよく考えてみればそこには現代の都市のありようの一側面が隠されておりアーティストとしては取り組むべきテーマと考えたのも当然である。角はそうした世界のありようを批判するわけでも悲観するわけでもない。あるいは資料を作品の一部として作品化するわけでもない。作品を見る人に対して全く別の観点から現状に気付いてもらう伏線を作品として作るというということだ。例えば、今春の展示では教室の机に展開するジオラマを背景に、ゴルフボールを実際に打ち続ける機械を作品化することを試みている。
角のこれまでの作品は、組み合わされた異なる要素から連想する新しい意味という面白さが、ともすれば作品それ自体で完結するものであったかもしれない。しかし市原での展示で作家が示した方向性は、ものが置かれている環境あるいは状況に広がりを見せている。つまり角の作品と、見る側の世界との接点がより意識的に見出されているともいえるのだ。
近藤俊郎(アートフロントギャラリー)
角の作品は日常的に私たちが目にするものを使うことが多い。といってもそれをそのまま使うわけでなく、職人芸的な細やかさで表面や形をも加工することで、よりステレオタイプな形に変えられてゆく。例えばステレオタイプな椅子、ステレオタイプなタンク。そうしたものに対して全く異なる要素を持ったもの、例えば植物の芽などが加工されたものに加えられることからユーモラスな形の作品が生み出される。ものそれ自体でも作品としては魅力的であり、こうして生み出される完成された小作品が多くの人々に支持されてきたのも頷ける。しかし本来は異質なもの同士を掛け合わせることで新しい意味を生み出すことが角という作家の真骨頂であった。例えば椅子と木の素材と木の芽を組み合わせることで、私たちの身の回りでごく当たり前に使われている木という素材に生命体を連想させることなど。連想ゲームのように多少見る側にも考えてもらわなければいけないかもしれない。しかし見る側が想像する余地があることこそ、例えば小説を読む私たちが行間を読んでその余韻を味わうように、アートが面白い理由であることを忘れてはならない。
アートは昨今のテレビドラマや漫画のように瞬時に強要されるようにして面白いと思わされるものでなく、作品がそこにある以前に見る側のアプローチにこそ意義があるのであって、見る側が面白いと思えるかどうかということにかけられているのである。見る側に発見される作品として、角の作品は近年の作家群の中では際立って面白い作家であって、作品を見て考える姿勢さえ身につければ作品から生ずる面白さについて枚挙するには事欠かないのではあるまいか。あるイメージの表層の意味はこうであって、しかもその背後に読み取れるメディアイメージはこうでなどと今更、ロラン・バルトなりの記号学や表象論を持ち出すまでもないであろう。高度情報化社会に住む私達にはもはや記号を記号と思うまでもなく連想ゲームのまっただ中にいるのであるから。角の作品には当然レイヤーとして加算された意味合いが相乗効果をもたらす面白さは単純に1+1=2ではなく、1x1=1であったり2X2=4であったりするということだ。近年の角の作品は派生し加算される意味の振幅がますます大きくなっており、角の作品が含む語彙は急速に拡大し続けている。
2014年に千葉県市原市で開催された「アート×ミックス」に参加。廃校の教室をスタジオに見立てたこのプロジェクトは現在も進行中で、設置された作品が少しずつ発展し、全く新たな要素が加えられたりしながら定期的に公開されている。この作品において、角は市原市の地形を教室の机に刻み進めるというプロジェクトを行っている。そうした恵もあって、道を進んでいてもさほど気づくことは少ないが同市の多くの山のかなりの部分が東京からの日帰りのゴルファーのためのゴルフ場になっていることに気付いた。それ自体はどこにでもある話だが都市に住む限られた人々のために市の面積の多くがそのような施設に化けているということはなかなか気づくこともなく、取り立てて問題というわけではない。しかしよくよく考えてみればそこには現代の都市のありようの一側面が隠されておりアーティストとしては取り組むべきテーマと考えたのも当然である。角はそうした世界のありようを批判するわけでも悲観するわけでもない。あるいは資料を作品の一部として作品化するわけでもない。作品を見る人に対して全く別の観点から現状に気付いてもらう伏線を作品として作るというということだ。例えば、今春の展示では教室の机に展開するジオラマを背景に、ゴルフボールを実際に打ち続ける機械を作品化することを試みている。
角のこれまでの作品は、組み合わされた異なる要素から連想する新しい意味という面白さが、ともすれば作品それ自体で完結するものであったかもしれない。しかし市原での展示で作家が示した方向性は、ものが置かれている環境あるいは状況に広がりを見せている。つまり角の作品と、見る側の世界との接点がより意識的に見出されているともいえるのだ。
近藤俊郎(アートフロントギャラリー)